B.C.3000年頃,地中海世界につながるギリシアと小アジアにはさまれた多島海海域において,オリエント文明の影響を受けつつも,青銅器文明が生まれる.
このエーゲ海で生まれた文明は,前半のクレタ文明と後半のミケーネ文明とに分けられる.
エーゲ海の南にある地中海最大の島・クレタ島[Κρήτη,Crete]のクノッソス[Κνωσός,Knossos]を中心に栄えた文明.伝説のミーノース王[Μίνως,Mīnōs]に因んでミノス文明とも呼ばれる.このクレタ文明を担った民族は明らかではない.
B.C.1600年頃には,クノッソス,ファイストス[Φαιστός,Phaistos],マリア[Mallia,Μάλια]の3都市が並立する形となった.
B.C.1400年頃に,ペロポネソス[Πελοπόννησος,Peloponnesos]半島東部のミュケナイ[Μυκῆναι]のアカイア人[Ἀχαιοί]がクレタ島に侵攻.クレタ文明は終焉を迎えることとなった.アカイア人は,アイオリス人[Aioleis],ドーリア人[Δωριείς,Dorians]と並ぶ古代ギリシア民族の一団.
ギリシア人の南下第一波とされるアカイア人がクレタ文明を滅ぼす形で勃興.アカイア人はクレタ文明とは交易関係にあったが,最後はクレタ文明に取って代わった.
ミュケナイ文明[後期エーゲ海文明]は,B.C.1200年頃に,北方から侵攻した海の民[Sea Peoples]によって突然の終焉を迎える.海の民は,エーゲ海だけではなく,シリア,パレスチナに上陸してヒッタイトをも滅亡に追い込む.さらには,エジプト新王国にも侵攻し,新王国第19王朝ファラオであるメルエンプタハによって撃退された.
海の民を構成していたフィリスティア人はシリア沿岸南部に上陸.やがて,ペリシテ人と呼ばれるようになり,セム系民族のヘブライ人と対立するようになっていく.
海の民によって蹂躙されたエーゲ海地方には,B.C.1100年頃にギリシア語西方方言群に属するドーリア人が南下し居住するようになる.ドーリア人は,ペロポネソス半島一円に定住し,先住民であるアカイア人と共存していく.このドーリア人のうちスパルティアタイ,あるいはラケダイモンという一派はエウロタス河畔にスパルタというポリスを築く.ドーリア人による征服を逃れたアカイア人は村共同体[コーメー,κώμη,Kome]を形成し,各コーメーが集まってポリスを形作っていく[シノイキスモス,συνοικισμóς,Synoecism].その代表例がアテネ.
B.C.8世紀からペルシア戦争中のB.C.480年のクセルクセス1世[Hašayārašā,Xerxes I]によるギリシア侵攻までの時代.
この時代,ポリスが勃興.王政から貴族政に移行していたアテナイでは平民層の不満が鬱積し政治的危機に陥ったが,ソロン[Σόλων,Solon]による改革で持ち直す.しかし,貴族派と平民派の対立は先鋭化し,ペイシストラトスによる僭主政[Tyrany]へと振り子は振り切れてしまう.ソロンはペイシストラトスに敗れ,僭主政はヒッパルコスとヒッピアスへと世襲.ここに至って,アテナイ市民はヒッピアスを追放.直ちに,貴族派に支持されたイサゴラス[Ἰσαγόρας,Isagoras]がスパルタによる軍事的支援を背景に政権を掌握.これに対して,平民派のクレイステネスは亡命.イサゴラスが評議会を解散に追い込もうとすると,評議会がクーデターによってイサゴラスを追放.クレイステネスを呼び戻し,ここにアテナイ民主政の基礎が築かれる.
ディオゲネス・ラエルティオス[Diogenes Laertius;-200-]によると,古代ギリシアの幾何学の潮流は古代エジプトの影響を受けて,タレスを始祖とするイオニア学派と,ピタゴラスを始祖とするイタリア学派の2つの大きな潮流によって発展が始まった.イオニア学派はミレトス学派とも呼ばれ,イタリア学派はピタゴラス学派とも呼ばれる.
この大きな潮流は,エウクレイデス[Εὐκλείδης,Euclīdēs,Euclid,ユークリッド]の『原論』[Στοιχεία,Elements]によって集大成された.エウクレイデスは初等幾何学を公理的に構成した.
後世,この公理的構成が順序の公理がないなど不十分であることが明らかになる.
こうした事態に対して,ヒルベルト[David Hilbert;1862/1/23-1943/2/14]は,20世紀数学全般の公理化への出発点となった記念碑的著作である『幾何学基礎論』において公理化を図った.ヒルベルトの公理はエウクレイデス的な記述であった.
その一方で,ワイル[Hermann Klaus Hugo Weyl;1885/11/9-1955/12/8]は『空間・時間・物質』の中で,現代的な記述によってエウクレイデスの公理を再構成し,$n$次元ユークリッド空間の公理系に昇華させた.
フェニキア人[Φοινίκη,Poeni,Phoenicia]のテリダイ族[Thelidae]出身で,アナトリア半島[Ανατολία,Anatolia]のイオニア[Ιωνία]地方で活躍したタレス[Θαλής,Thalēs,Thales;B.C.624年頃-B.C.546年頃]が「半円に内接する角は直角である」ことを証明.
この定理は,円周角の定理の特例であり『タレスの定理[Thales' theorem]』と呼ばれる.
ビザンティンのプロクロス[Proclus;412-485]は『ユークリッド「原論」第1巻註釈』のなかで,タレスがエジプトに行き,古代オリエントの数学的知識[幾何学的知識]を習得し,それをギリシアにもたらした,としている.タレスはタレスの定理以外にも
また,具体的な測量結果を離れて,抽象的な三角形という言葉を用いて,その性質を明らかにするということは幾何学の嚆矢となった.
タレスの考え方は,アナクシマンドロス[Anaximandros],アナクシメネス[Anaximenes]に引き継がれた.
ピタゴラス[Πυθαγόρας,Pythagoras;B.C.582年-B.C.496年]は小アジア[Μικρά Ασία,Mikra Asia, Asia Minor]のミレトス[Μίλητος,Miletus,Milet]沖のサモス島[Σάμος,Samos,Sisam Adası]で生まれ,18歳の時にタレスの弟子となった.
タレスの勧めによって,ピタゴラスはエジプトに渡り,天文学と数学を学ぶ.エジプトからバビロンを経てサモス島に戻るも,ポリュクラテス[Πολυκράτης, Polycrates]による僭主政治体制を嫌って,イタリア半島南部のクロトン[Κρότων,Kroton;現在のクロトーネCrotone]にB.C.520年頃に移住.「万物は数」であるという,宇宙の原理を数に求める思想を,ピタゴラス教団という集団を形成して広めた.ピタゴラスは,直角三角形においては,直角を挟む2辺の長さ $a,b$ と斜辺の長さ $c$ との間に,\[c^{2}=a^{2}+b^{2}\]という関係があることを証明した.これが,ピタゴラスの定理である.ピタゴラスの定理は,中国においては「勾股弦の定理」と呼ばれていた.「勾」というのは直角を挟む2辺のうちの短辺のことであり,「股」というのは直角を挟む2辺のうちの長辺のことであり,「弦」は斜辺のことを意味する.日本でも同様であったが,昭和16・17年頃に末綱恕一博士によって「三平方の定理」と呼ばれるようになった.
ピタゴラス教団は,このピタゴラスの定理によって,通約不可能な量である $\sqrt{2}$ を直角三角形の中に見出す.そして,この事実は宇宙の調和を崩すものと考えた.ピタゴラス教団は線分は,原子的な数によって構成され,その原子数は無限個ではなく,有限個であると考えていた.
なお,古代ギリシアには小数の概念はなく,自然数の比で表現されていた.そして,無理数[irrational number]の概念も当然に存在しなかった.
ピタゴラス教団は,やがて,クロトン市民と政治的な対立を引き起こす.その結果,ピタゴラス教団はクロトン市民による襲撃を受け虐殺された.ピタゴラス自身はメタポンティオン[Μεταπόντιον,Metapontum;現在の伊ベルナルダBernalda]に逃れて死を迎えたともいう.その他の生存者はギリシア本土に逃れ,数学の普及に寄与していくこととなる.
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Mathematics is the language with which God has written the universe.